HIV感染

自分ではないものを見分けています

最近では鳴りを潜めたものの、面白そうな世界があると直ぐに首を突っ込みたくなる性格が祟り、お父さんは大学院に通っていた頃はHIV1を扱っていました。

いわゆるエイズウイルスの事でして、1980年代終わり頃のお話です。AIDS2と呼ばれ体の免疫が無くなってしまう病気の原因ウイルスで、同性愛者や麻薬常習者、そして世界中の血友病患者の間に拡がりを見せていました。

実験にはたくさんの種類のウイルス株が欲しかったので、様々な研究機関から譲って戴いていたのですが、まさか郵便で送ってくれとも言えず、自分で取りに伺いました。

輸送の途中では、周りのヒトが全て『敵』に見え「この試験管が割れて拡散したら『復活の日』の様になってしまうかもしれない」等と、新幹線の中で一人ドキドキ3

現在でこそHARRT4と言う有効な治療法ができましたが、当時は治療法なんか無く発症したら後は死を待つだけの悲惨な病気でしたので、もしも自分が感染してしまったら大変。

一緒に実験してくれる物好きなヒトもおりません。Class IIbの実験室で昼間はずっと一人きりです。自分が感染していないかどうかも自分で調べるセルフサービスぶりでした。

HIV感染検査

免疫不全症候群ですので、通常なら何の問題にもならない弱い菌が体内に入っただけで命に関わる重い症状を引き起こします5

とは言え感染しているだけならまだ免疫系は生きていますのでHIVに対する抗体は血液中に出てきます7

抗体は、物凄い親和性と特異性で標的分子とくっつきますので、実験ツールとして様々な分野で使われていますし、現在では抗体医薬と称し、その性質を生かした治療薬が多数生まれました。さらにはこのように臨床検査の検出対象にもなるという訳です。

21Gの翼状針を自分でプスと刺し、血液を採取して遠心分離にかけます。取れた血清(Serum)の中にはHIVに対する抗体が入っているかもしれませんので、感染しているT細胞にパラパラとかけた時、抗体が出来ていれば細胞表面に引っ付きます。

引っ付いているかどうかも抗体を使って調べます。蛍光色素のくっついた抗ヒトIgG抗体を更にパラパラとかけてやり、細胞が「ピカ!」と光れば陽性です。間接蛍光抗体法と言います。

自分の過去の血清(陰性対象:ネガコン)と自分の本日の血清(サンプル)とAIDS患者さんから戴いた血清(陽性対象:ポジコン)で同時に実験し、ポジコンだけ「ピカ!」と光ればOK。

実験室が建物の9階にあったので、陽性だったらヒョイと飛び降りちゃえばいいや、位の軽いノリでやっていたのですが、ある時、本日の血清で「ピカ!」と光りました。目の前が真っ暗。

ただし、飛び降りる前に検査をやり直したら光りませんでしたのでどうやらサンプルの取り違え。間抜けな実験ミスで危うく命を落とすところでした。

ペイシェント・ゼロ

それまで全く知られていなかったような新しいウイルス感染症が1980年になって突然姿を現した8のですから、疫学調査はそれはもう徹底的に行われました。

感染経路の調査では、誰からもらったかを芋づる式に追いかけ、合衆国へのルートが解明されました。ある航空会社に勤務するカナダ人客室男性乗務員が持ち込んだのです。

それより前は遡れなかったので、彼はペイシェント・ゼロと呼ばれる様になります。アフリカ勤務が長かったとの事。

また、1970年代に欧州でAIDSと良く似た症状で無くなった患者さん達の血液サンプルを後になって検査してみたらHIV陽性で、みんなアフリカ滞在していた事などから、発生の起源はアフリカであるというのが当時からの見解でした。

アフリカのサルに感染するSIV9すなわちサル免疫不全ウイルスが突然変異でヒトに感染するようになったものらしい事が現在では明らかになっています。

発症の報告は、1981年にロサンジェルスの男性同性愛者の5件が最初らしく、その後、麻薬常習者においても続々と報告される様になりました10

ただ、初期の感染報告がホモとヤク漬けだったからAIDSと言う病気もキワモノ扱いされてしまった事が、後々の日本での不幸に繋がります11

ウイルスの発見

HIVウイルス発見は合衆国の国立衛生研究所(NIH)とフランスの感染症研究の雄、パスツール研究所のガチンコ勝負でした。

フランスのリュック・モンタニエ博士とフランソワーズ・バレシヌシ博士はAIDS患者から分離したウイルスをLAV12と命名しました。同様にアメリカのロバート・ギャロ博士はHTLV-III13の発見を報告しました。ちょっと遅れてUCSFのレヴィ博士も分離に成功しARV14と名付けています。

後に全て同じウイルスである事が判明し、名前はHIV-1に統一されます。ここまでは表向きの話15

その後、大きな疑惑が噴出します。ギャロ博士の分離したウイルスとモンタニエ博士の分離したウイルスがとても良く似ていたのです。

同じウイルスだから似ていて当たり前ではないかとも思えるのですが、HIVはとても変異が早い事が当時としても知られており、これがワクチンを作っても役に立たない理由になっている位です。

まるで、同じ患者から分離したウイルスであるかの位に似過ぎていました。どっちかが盗んだのではないか?

HIVと同属のレトロウイルスであるHTLV-I、HTLV-IIを発見していたギャロ博士は既に世界のスーパースター研究者でした16

世界中から彼の元にサンプルの確認依頼が舞い込む17のですが、その中にモンタニエ博士の物も有ったのです。

疑われ出したのはギャロ博士が公表したウイルスの電子顕微鏡写真は、モンタニエ博士の写真を裏返して天地逆にしたものだった事が判明したから。

彼が発見して当然と言う世界のプレッシャーに負けちゃったのでしょうか。何らかの理由で写真が混ざってしまったのだと言い訳していましたが、彼の権威は既に地に落ちてしまいました。

この問題はHIV治療薬の莫大な収益に直結する国家間の特許問題に発展し、政治的なウヤムヤ決着と成りました。

すなわち特許収益は2国間で分け合い、名誉はフランスに帰属する。という訳でモンタニエ博士とバレシヌシ博士は2008年にノーベル賞を受賞しています18


お父さん解説

  1. HIV:human immunodeficiency virus
  2. エイズ:後天性免疫不全症候群:AIDS:acquired immunodeficiency syndrome 今から思えば、お父さんが道を踏み外したのはこの頃からだったと再認識した
  3. 抗生物質の探索と言うレトロな研究室に在籍していたのだが、その分野が華やかだったのはセフェム系の半合成が盛んに行われていた1970年代まで。
    日本中から土を集めてきてセッセと培地に植え付け、放線菌を増やして培養上清の抗菌活性を調べ、有望そうなものから2次代謝産物(抗生物質)を精製して、あわ良くば一攫千金……等と言うムシの良い事を考えていたら、結局何にも見つからず、卒業さえ危うい切羽詰った状況になり、このままではイカンと同じ敷地内にある医学部の細菌学教室に潜り込んで、新しい感染症の研究をする事にした
  4. HARRT:Highly Active Anti-Retroviral Therapy:複数の抗HIV-1薬を各人の症状・体質に合わせて組み合わせて投与し、ウイルスの増殖を抑え後天性免疫不全症候群 (AIDS) の発症を防ぐ治療法の事
  5. こういうのを日和見感染症と言う
  6. HIV と言う奴はヒトの免疫の総司令官であるT細胞、それも CD4分子を表面に持っているヘルパーT細胞に取り付いて増殖する/efn_note]。そこで、体内のHIVに対する抗体の有無を調べて感染しているかどうかを判断するのです。

    だから抗体が見つかれば、それは体内にウイルスが入った事を示す間接的な証拠。肝炎ウイルスなんかも同様です6ウイルスと言うのは、自己増殖の為の遺伝子をそのカプセルの中に持っているが、増殖に必要なエネルギー代謝系を自分では持っていないので、全てを寄生先(ホスト:host と言う)の細胞に依存している。だからホストが死んでしまうと共倒れになってしまう。ホストを生かさず殺さず、上手く共存共栄させるのが正しい生命戦略。でも、突然変異で出てきた奴は暴れまくってホストを殺すのでウイルス界の劣等生と言える。幾世代も重ねればHIVと人間の関係も淘汰され、おとなしい感染症になっていくと思われる。それまで人類が絶滅しなければね…
  7. 様々な憶測も飛び交った。アメリカが軍事目的で開発していた生物兵器が漏れ出して感染したのではないか? とかね・・・
  8. SIV:simian immunodeficiency virus
  9. AIDSの最初の報告から10年程でAIDSの患者は世界中で100万人に達した。合衆国では、感染拡散の監視、対策の立案と実施はCDC:Center for Disease Control and Prevention:米国保健福祉省所管の「疾病管理予防センター」が中心となって指揮を執っていた。
    CDCと言えば、架空のウイルス『モターバ』の感染ルートの追求で陰謀と対決するダスティン・ホフマンがカッコ良かったね。しかし、サルを一匹捕まえたくらいで数日で大量の血清を作るという設定にお父さんは「んな訳有るかい!」と突っ込みを入れていた
  10. HIVは感染患者の体液が健常者の血液に入る事で感染する
  11. LAV:Lymphadenopathy-associated virus
  12. HTLV-III:HumanT-lymphotropic virus type III
  13. ARV:AIDS-associated retrovirus
  14. HIVウイルス発見時の競争とその後のゴタゴタはリアルタイムで見ていたのでよく覚えている
  15. ギャロ博士は、AIDSウイルスにHTLV-IIIと命名した。遺伝情報としてRNAを使っているレトロウイルスの内、レンチウイルス亜科と言うのに属しているとされた
  16. ライバル同士がお互いが発見したものを、同じかどうか確認するために、サンプルそのものやそれを調べるための抗体を送りあう事は普通に行われている
  17. これ、NHKのニュースにもなった
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