ワクチン1は医薬品と並び人類が病気に立ち向かうための非常に頼りになる武器です。
病気に罹ってから直すよりも、罹る前に予防した方が遥かに医療経済学上好ましいし患者さんも楽と言う事で、2000年以降、大手製薬会社も次々とワクチン開発を重要視する風潮が生まれて来ています。
さらに近頃は感染症だけではなくガン患者毎にオーダーメイドワクチンなるものを作り出し、個別の治療に役立てようとする新しい動きも加わってワクチン業界は俄かに賑やかになってきました。
ワクチンの発明にまつわる物語はいつも免疫学の歴史とリンクして語られています。
二度なし現象
免疫と言う現象、人類が意識するようになったのはいつ頃の事かはっきりしませんが、最古の記録は、ペストの大流行が戦争の勝敗に与えた影響を描いた「戦記」2にあります。
B.C.430年頃のカルタゴ戦争の記録でして、トゥキュディデスと言うヒトが残しました。一つ前の戦争でペストの流行で壊滅的被害を受けたシラクサ防衛軍は、再度のペスト流行時には感染する兵士が激減し戦争に勝利したと言うものです。
この事実は19世紀末の微生物学者ルイ・パスツールによって二度なし現象3として再発見されています。
また14世紀にはペストの大流行がヨーロッパを襲いました4。
修道院や教会等では慈善活動を行うキリスト教騎士団が病人の介護をしていましたが、やはりペストでパタパタと死んでいきます。でも、奇跡的に助かった僧侶やキリスト教騎士達は、それ以後いくらペスト患者と接触してもこの病に倒れる事はありませんでした。
当時のヒト達が、これは神のご加護であると信じたとしても全く不思議ではありません。そして神のご加護を得た者はローマ法王から課税を免除されました。
課税(munitas)を免がれる(im-)という単語が当てられImmunity(免疫)という言葉もできたのです5。
近代免疫学の祖
これが神のご加護では無く生体の持つ免疫反応である事が理解され始めるにはその後450年かかりました。英国の外科医、エドワード・ジェンナー先生が実施した種痘法で二度なし現象を再現出来たからです。
1798年、ジェンナーは生まれ故郷グロスタシャーの農村地帯で古くから農民に伝わる伝承を実験的に明らかにしました。すなわち「牛痘に一度罹った者はそれより重い天然痘には罹らない」です6。
牛痘に罹った乳搾りの女達が、天然痘の流行時に罹患しない事を聞き取り調査と観察で確信し、牛痘の膿を子供に接種する事によって天然痘を予防できる事を発見したのです。その効果が確認されると今度は村人に集団接種を行い、村を天然痘の流行から守りました7。
これがワクチンの始まり。雌牛の事をラテン語でバッカ(Vacca)と言う事から名付けられました。種痘法は天然痘を予防する方法として瞬く間に世界中に広まり、200年後の1980年には地球上から天然痘という病気がなくなりました8。
抗体の発見
19世紀末になると、いろんな細菌が次から次へと発見される様になりました。そして細菌研究の成果を病気の治療に応用しようとしたのがフランスのルイ・パスツール先生です。
1885年、狂犬病に罹った患者に毒性を少なくした狂犬病ウイルスを植えることで治療しました。ジェンナーの種痘法の発見から約90年後です。
このワクチンの成功が元になってパスツール研究所が出来、身体がどのようにして伝染病から治るかということについての学問がスタートしました。
同じ頃、北里柴三郎という人が結核菌を発見したロベルト・コッホの下で研究を始め、ウサギに破傷風やジフテリアなどの毒素を少しずつ注射していると毒素に対して抵抗性を持つ事を見つけたのです。
どうも毒素の働きを抑制するものがウサギの体内に出来てくるらしいゾ、と言うのが着眼点。毒素と毒素を注射されたウサギの血液を混ぜると毒素の働きが無くなる事も発見し、何らかの物質が血液内にできたものと推測、それを抗毒素と呼びました。
免疫と言う現象が物質的な裏づけを伴って語られたのはこれが最初です。酸がアルカリで中和されるのと良く似ている事から中和反応と呼びました。
この反応を司る抗毒素は抗体9であった事が後に判ってきます。
さらに、一度体内で作られた抗体は再度の免疫により、より早く、より大量に作られる事も明らかになりました。これが2度なし現象の本体、ワクチンの原理であり、アレルギーの発症理由です。
免疫系は単に相手の識別をしているだけで無く、相手を記憶しているのです。これを免疫学的記憶と呼びます。
両刃の剣
物質として毒素を中和してしまうものが見つかったのですから、今度はそれを毒素の治療に応用しようと考えます。
北里柴三郎とベーリングが発見した抗毒素(抗体)を使った治療方法がそれであり、いたって健全な普通の考え方ですね。
馬に破傷風の毒素を注射して抗毒素(血清)を大量に作らせます。これを注射すれば破傷風になりかけた傷病者を毒素から守る事が出来ます。
その頃、クリミア戦争10が起こりますがこの破傷風の抗毒素が売り出された結果、莫大な数の人間が破傷風の難を逃れ助かりました。
当時は免疫学の勝利だと快哉を叫ばれた様ではありますが、同時に副作用が山の様に出ました。なんせ馬の血清をヒトに注射しているのだから当たり前。ヒトの体内には馬に対する抗体が多量に出来てしまう訳です。
注射された馬の血清由来タンパク質と自分の作った抗体が抗原抗体反応を起こし、タンパク質がグジャグジャに固まった免疫複合体と言うものが出来ます。いろんな所に詰まってしまい、腎臓炎とか心内膜炎、血管炎等の病気が発生しました。
この頃、強力な毒を持つクラゲ毒の抗毒素を作る試みも為されました。モナコでは海辺でクラゲに刺される事故が多発していた事から、モナコ国王の招きでフランスの免疫学者が実施したのです。
犬を使ってクラゲ毒の免疫血清を作ろうとしたのですが、2回目の抗原を注射された犬が死ぬハズの無い極微量のクラゲ毒でショックを起こして死んでしまいました。
免疫学者は、この現象に無防備と言う意味のギリシャ語でアナフィラキシーと命名しました11。予防の意味のprophylaxisの反対(ana-)だからです。臨床的にはペニシリン・ショックと言うのがとても有名です。
アレルギーと言う単語が生まれたのもこの頃です。ALLOS(変化する)とERGON(力、働き)を重ね合わせて造った言葉です。身体の反応が何か事件がある事で変わってしまうからです。
この様に、免疫というのは身体に良い方の働きだけじゃないぞ、と徐々に判り始めた訳です
個の識別
免疫と言う現象、それまでは伝染病とセットで語られる事が多かったのですが、研究が進むに連れ必ずしも感染症に罹った時だけに現れるものでは無い事に気付きました。
病原微生物だけでなく、自分とちょっと違ったものであれば抗体が出来る事が判ったからです。
赤血球なんて形は全く同じなのにウサギは羊の赤血球を侵す抗体を作ります。すると今度はどうしてウサギは自分の赤血球に対して抗体を作らないのだろうと気になる訳です。
じゃあ、ウサギ同士、ヤギ同士の血液だったら抗体は作らないのかと思ってやってみたら、これがまたちゃんと抗体を作りました。自己と異なるものは抗体でそれを排除しようとする、すなわち現代免疫学で言うアロ抗原です。
そうした事から、免疫は侵入してきた微生物をやっつけて身体を守る仕組みではなく、どうやら自分自身とそうでない物とを区別する仕組みなのだと言う考え方へと変わっていきました。
その仕組みを支えるためには生体分子を見分ける分子が必要です。現在では、免疫系は理論的には10の12乗、つまり一兆種類という極めて多い種類のものを特異的に区別可能である事が判っています。
さて、1940年代になると移植の拒絶反応に興味が持たれる様になりました。戦争で火傷をした兵士に皮膚を移植しようとしましたが絶対にくっつきません。
外科手術の技術が発達して臓器の移植、つまり部品の入れ換えができないかと考えたのですが、これもやっぱり上手くいきません。
同じ人間同士、遺伝子から見ても99.9%まで同じ、タンパク質としてはもう殆ど違いが判らない。それなのに免疫系は一人ひとりの違いを区別しています。
個の識別に興味が持たれる様になったのが、たかだか今から60年程前の1950年代からです。その辺りから免疫学が非常に活気づいて来ました。
免疫学の爆発的発展
1960年代には、免疫を担当する細胞の働きが少しずつ解明されていきます。いわゆる細胞免疫学という領域の学問です。更に1970年代には遺伝子の解析が免疫分野でもドンドンと応用されていきます12。
他の生命科学と免疫学が手を結ぶ事で、一気に長足の進歩を遂げたのです。
1990年代になると発生生物学からスタートしたノックアウト・マウス技術を用いて様々な遺伝子欠損が個体レベルでの免疫系の異常(免疫不全症や自己免疫病などの事です)とどのように結びついているのかが解明されていきます13。
こうして、自己とは何か、自己以外のものを区別して識別するような分子とはどんなものか、そういう著しい多様性を作り出している遺伝子の仕組みはどうなっているのか、識別した相手に様々な反応を示す仕組みはどうなっているのかが次々に解明されて今の免疫学を作り上げてきました。
お父さん解説
- ワクチン:vaccine
- 「戦記」:当時のカルタゴ軍(現在のチュニジア)が、海を挟んだギリシャ植民地を次々と攻略していた時の様子が書かれている。特にシチリア島のシラクサ防衛軍の攻防戦は熾烈を極めた
- 二度なし:nonreidive現象
- 当時、ヨーロッパの人口の3分の1にあたる人が亡くなった。この時、修道院でスピリッツに薬草成分を溶かし込んで作った薬酒がリキュールの始まり
- 全然関係ないが ~ 日本史と民俗学
天然痘:日本において和名に充てられた「疫」と言う漢字は、かつての各地の村落共同体で伝承されてきた痘瘡神信仰の「痘瘡(ほうそう)」に同じだから「免疫」とは文字通り、天然痘を免れるためのモノである。
疱瘡は感染力が強く、死亡率が高い伝染病として古くから日本でも非常に恐れられており、天平9 年(737)に流行した疱瘡で、藤原鎌足の次男・藤原不比等の息子四兄弟が死亡した事が古文書に残っているらしい。医療技術の発達していなかった古代では、病気は目に見えない霊的な存在によってもたらされると信じられていて、特に流行病、治療不可能な重病は怨霊・悪鬼によるものとされた。
さらに、平安時代頃に中国から疫鬼の伝承が伝わって融合し、疫病が鬼神によってもたらされると言う民間信仰すなわち「疫病神」に繋がったと思われる。
モチロン、平安時代に入っても適切な治療法や予防法がある訳でもなく、人々は疱瘡を御霊の祟りと信じ、疱瘡を村の外へ送り出す「疫病神送り」をするなど呪術的信仰に頼っていた。
かつての日本の村落共同体では「病」をカミサマとして祀る事で「病」封じを行っていた。このように災いを防ぐために疫病神を祀るといった行事は日本独特の文化であるらしい。こうした信仰は少しづつ形を変えて全国に見られる。近くの神社に「疱瘡神」様がおられれば、それは疫病神送りの呪術的信仰の名残だったりする。 - 民間伝承と自らの観察眼で「牛痘に罹れば天然痘には罹らない」と確信するのは良いが、ソレを確かめる手段として『近所の子』に牛痘に罹った牛の膿を植え付けた。 ワクチンを人類にもたらしたのは間違いなくジェンナー先生の功績ではあるが、いきなりの人体実験であり、現代でコレをやったらかなりまずい
- その顛末は『牛痘の原因及び作用に関する研究』(An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae)に記録されている
- 1980年にWHO(世界保健機関)が天然痘の撲滅を宣言した
- 抗体:antibody
- クリミア戦争(1853~1856):フランス、オスマン帝国、イギリスを中心とした同盟軍 VSサルデーニャ・ロシア軍。戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ大規模な戦争
- アナフィラキシー:anaphylaxis
実際には「無防備」などではなく、過剰な免疫反応である事は現在皆が知っている。でも、当時はチョビッとの毒で死んでしまった事から「無防備」と誤解されてしまった。そしてソノ誤解は名前に現れたまま現代に至る - 抗体産生における遺伝子組換えでは利根川進先生がノーベル賞受賞された
- あまりにも爆発的に知識が増えたために1990年代頃の免疫学教科書は、授業の度に「ココが間違っている」「ココが新しく判った」の繰り返しですぐに古くなってしまった。3年生で免疫学を教わったのに、6年生で医師国家試験を受ける時にはまるで役に立たなかったと言う話も友人の医師から聞いた