生物の持っている様々な特性や働きを上手に利用して、あるいはそれを人為的に変容させて我々の生活の役に立てようと言うのがバイオテクノロジー1の本質です。
学問体系とは違い、技術ですので生物が関わっていて便利な事、気持ちの良い事、素敵な事は全てがバイオテクノロジー。
例として思いつくのが、遺伝子組換えによる有用タンパク質の生産2だったり、遺伝子組換え農作物の栽培3だったり、クローン羊「ドリー」を産み出した生殖技術の話だったりします。
ただ、そのような最先端ばかりがバイオテクノロジーではありません。人類が長年付き合ってきた技術がたくさんあります4。
例えば、抗生物質と言うのは放線菌やカビなどの微生物の働きがあって初めてあの複雑な化合物を手に入れる事ができました。
植物や家畜の品種改良は遺伝子操作など使わずとも長い年月をかけて交配と言う技術でやってきましたし、細胞クローン技術は無くとも挿し木や接ぎ木で有用な品種を収穫してきました。
発酵・醸造技術が無ければ味噌・醤油・お酒・味醂・チーズ・ヨーグルトを口にする事は出来ません5。
お父さんの大好きな納豆だって同じです。これらは全て身の回りに居るいろんな生物の働きで出来ている事なのです。
発酵
糖を材料にしてアルコールを作るのは洋の東西を問わず酵母、学名でサッカロミセスセラビジエ(Saccharomyces cerevisiae)の仕事です6。
自然界には何千種もの酵母が生きており、糖のあるところでアルコールを作っていました。紀元前から木のウロなどに自然に溜まった酒を発見して人類は飲んでいたと言います。
酵母は栄養分として糖を取り込み、エネルギー代謝して要らなくなった物をアルコールとして外に出している訳ですのでアルコールは酵母のウンチ7といえなくもありません。でも役に立つウンチです。
微生物の働きを利用してヒトの役に立つ物を作らせる訳ですからこれはまぎれもなくバイオテクノロジーです。発酵と言います8。
醤油だって味噌だって味醂だってその観点では一緒。他の生物のおかげで我々の食生活は豊かになっているのです9。
醸造酒 単発酵
醸造酒ってどうやって造るか知っていますか?
何を材料にしてお酒を造るかはお国により、地域により、時代により様々ですが、糖から酵母によるアルコール発酵を経て作られるのはみんな一緒です10。
例えば最古の醸造酒はブドウから造るワインですが、果実はブドウ糖(D-Glucose)を豊富に持っています。ブドウ果汁を絞った所に酵母が飛び込めばいつの間にかワインになってしまうと言う次第11。
これは特別にブドウ糖を用意する必要が無いので単発酵と言います。リンゴを使ったシードルと言うお酒や、サトウキビを原料にするブラジルの地酒ピンガなんかはこのタイプ。
醸造酒 複発酵
穀物からもお酒は出来ますが、栄養分としてはブドウ糖ではなくデンプンが貯めこまれているためにひと手間余計にかかります12。
ブドウ糖がたくさん集まって繋がっているのがデンプンですので何らかの方法でそれをバラバラにしてあげないと原料であるブドウ糖ができません。バラバラにする手段として生物の持つ酵素が使われます。
ビールとかウイスキーの原料の名前でモルトと言うのは聞いた事があるでしょう。麦芽の事です。文字通りこれは大麦の種子を発芽させた物の事。
麦の種は元々自分が発芽して成長にするのに必要な栄養分をデンプンとして貯めているわけです13。でも、そのままではエネルギーとして使えませんので、種はデンプンを分解する酵素も同時に持っています。
休眠中に不活化していた酵素が発芽と同時に活性化するのです。この酵素をアミラーゼと言います14。デンプンは酵素で分解されブドウ糖になり、そして糖化した麦汁に酵母を加えるとアルコール発酵が始まるのです。
糖化もバイオテクノロジーで、と言う訳でした15。
醸造酒 平行複発酵
通常の醸造酒であれば出来上がったお酒のアルコール濃度はせいぜい5~15%位でしょう。
生物のやっている事ですのでアルコール濃度が高くなりすぎると酵母16が弱ってしまい発酵が止まってしまうからです17。
ところが日本酒の場合、20%超えはザラで40%を超えるものも有ります。市販品は加水して15%程度まで落としていますが、原酒は醸造酒としては世界的にも類を見ない高濃度です1819。
日本酒はお米から作られますが、米の栄養分もデンプンですので当然糖化のステップが必要になります。
糖化に用いるのは米コウジと呼ばれるカビでして、当然これもバイオテクノロジー。
通常の複発酵ですと糖化が終わったら次に発酵、と言うように順番に進みますが、日本酒では平行複発酵と言いまして、コウジカビによる糖化と酵母による発酵を同時進行させる世界に類を見ない方法です。
糖分たっぷりの溶液の中でヌクヌクと育てられ、アルコール濃度が高くなると「もうダメ~」と弱音を吐くのと違い、平行複発酵ですと糖分の少ない飢餓状態で酵母は育てられます。
日本人は酵母が生きようとする力を最大限に引き出しながら少しずつ糖を与えて発酵を進め、高濃度アルコールを醸造する方法を編み出したのです。
日本酒が世界に誇れる醸造の芸術と言われるのはこんな所に秘密が有りました。
納豆
酵母もカビも使いません。納豆菌という細菌を使うと大豆からおいしい納豆が出来ます20。
これだって立派なバイオテクノロジー。
納豆菌は学名でバシラスナットー(Bacillus natto)と言います21。学名に日本語読みが採用された数少ない例。
そういえば日本以外では見ない食物だね。
納豆は、良質なタンパク質を取れるだけでなく、乳酸菌より強力な整腸作用はあるし、ネバネバはカルシウムの吸収促進効果はあるし、血液凝固因子を作るのに不可欠なビタミンは持っているし、ナットウキナーゼはなんとなく健康に良いらしいし、と言うわけで、お安く・おいしく・健康にも良い、まさに理想の食品です。
最近は見かけなくなりましたが、秋の田んぼに行くとわら22が落ちています23ので、これを鍋でよく煮ます。このわらで作った「わらつと」と言って船の様な形をした入れ物の中に煮た大豆を入れて一晩~二晩、おコタで保温すると出来あがります24。
バシラス族の細菌は芽胞25という熱に強い形態を持つので、わらを煮る事で他の細菌が死滅してもしぶとく生き残って納豆が出来ます。
また納豆の一大特徴、あのネバネバの成分はグルタミン酸と言うアミノ酸が長く連なった物です。そう、うま味調味料の主成分ですね。ネバネバがあるからおいしいと言えます26。
このスバラシイ納豆、ちょっとだけ困った事があります。
ワーファリンと言う抗血液凝固剤は血栓の出来易い病気を持つヒトが継続して飲まなければならないお薬なのですが、納豆と愛称が悪いのです。
ワーファリンを処方されるときにはお医者さんから納豆を食べてはいけませんと指導されます27。
添付文書を見てみると「本剤の作用を減弱するので、左記食品を避けるよう、患者に十分説明すること」「左記食品に含まれるビタミンKが本剤のビタミンK依存性凝固因子生合成阻害作用と拮抗する」と書いてあり、左記を見ると納豆と有りますから。
納豆の持っているビタミンK2がワーファリンの作用を弱めてしまうのだそうです。
お父さん解説
- バイオテクノロジー:Biotechnology
- 有用タンパク質の生産と言えば、インスリンやエリスロポエチン等のホルモンを医薬品応用するのがその代表例
- 近頃はスーパーマーケットで買い物をする時に「本品は遺伝子組み換えダイズを使用していません」なんて表示を良く見かけるので、この辺はもうお馴染み。 お父さん的には組替えたDNAだって食べたら消化されちゃうからどうだって良いのだが、気にするヒトも居る。でも、遺伝子組み換えのイネ/トウモロコシ/ダイズなどは、病気に強い品種を使っていないと、食料確保が難しくなるので、これからの時代にこそ本領発揮といったところか?
- バイオ:英語で生命を表す接頭語。語源はギリシャ語の bios:人間などの生命の意、またはラテン語の vivus:生命のある などらしい
- キムチは乳酸発酵、お酢は酢酸発酵。
同じ発酵と名前がついていたとしてもやってる中身は全然違っていたりする - 酵母と言うのはバクテリアではない。 我々と同じく、真核生物と言う範疇に入る。 真核生物として初めて全てのゲノム構造が明らかになったのはやはり酵母であった
- ウンチ:排泄物 と言った方が良かったか?
- パンだって酵母があるからふっくら膨らむ。すなわちパン造りだって立派なバイオテクノロジー
- ちなみに「発酵」と「腐敗」の違いは、出来上がったものが人間にとって役に立つか役に立たないかだけ。どう見ても腐っているとしか思えない物も、食べておいしければそれは発酵。人間の恣意が入る訳でして、身勝手ではあるが、まさにテクノロジーたる所以
- 何事にも例外はある。
テキーラとかメスカルというお酒は竜舌蘭(リュウゼツラン)という植物 Agave tequilana からZymomonas mobilisと言うグラム陰性の嫌気性細菌の発酵によって造られた物を蒸留している - だからワインと言うのは発酵技術的には単純で、その年のブドウの出来に大きく左右される。ヴィンテージイヤーなどと言う呼び方があり、ブドウの当たり年のワインには1本数百万円などと言うとんでもない物が飛び出したりもする。お父さんの好みはリースリングと言う品種のブドウで作るドイツ産の白ワインです。(安い)
- 穀物(小麦・米・トウモロコシ)は英語ではgrainと言う。グレーンウイスキーと言えば、バーボン等のトウモロコシを原料とする物を指す。麦芽の使用量で酒税が変わるので代用として用いられたのがそもそもの始まり。酒の歴史は酒税との戦いの歴史でもある
- デンプン(アミロース/Amylose)デンプンと同じくブドウ糖が沢山集まってできる分子としてセルロースがある。同じブドウ糖が原料なのに人間はセルロースを栄養源にできないのは、それを分解する酵素を持っていないから
- アミラーゼ:Amylase 後ろに ~アーゼ:~ase をつければ酵素の名前ができあがる
- ウイスキーでは何を材料にするかで味わいが変わる。麦芽だけを材料にするシングルモルトウイスキーとかピュアモルトウイスキーは醸造所と蒸留所ごとの個性が魅力らしい
- 酵母:イースト:Yeast
- 「酵」は古くから東洋で発酵現象を意味する字。「母」はそれ以前も「酒母」と書いて「もと」と読んでいたことを含め明治の終わりにイーストの事を酵母と呼ぶようになった
- 世界最高濃度の蒸留酒はポーランド産ウォッカのスピリタス96%。ラベルには「火気厳禁」と書いてあるらしい。ちなみに薬局で買える日本薬局方のエタノールも96%でほぼ同じであり、驚いた事にコレにも酒税がかかる
- 全然関係無い話だが…
消毒用エタノールは70~80%。これ以下でもこれ以上でも消毒能力は劣る。したがって「消毒でもするか~」と言い訳をしながら飲むときは 151プルーフ(アルコール度数で75.5%)のラム酒 レモンハートあたりをストレートでグイグイ行くのが正しい。倒れるけど - なぜ、納豆を話題に選んだか? お父さんの 大好物だから
- 学名はイタリック体で書くというのが世界的なお約束。バシラス属はグラム陽性球菌で抗生物質感受性が高いため、納豆菌と親戚筋の枯草菌:Bacillus subtilis を抗生物質検定に良く使っていた記憶がある
- 藁:ちゃんと「ワラ」と読めますか?
- お父さんが小学生の頃は秋の田んぼでは「落穂拾い」と言うのもやって、お米をお金に換えて学校の図書館の本をそろえていた。「落穂文庫」と言っていた
- 君たちは藁つとに包まれた納豆なんて知らないだろうな。発砲スチロールに入っている納豆しか見たこと無いだろうから
- 芽胞:がほう と読む 英語でspore
- 納豆のネバネバ:もうひとつの成分はウロン酸が繋がって出来ているペクチンと言う酸性多糖類
- 「納豆を食べてはいけません」
お父さんの友人の父親(元医学部教授)は主治医にこう指導されてワーファリンによる治療を拒絶した。 後に聞いた話では、彼はもともと納豆を月に一回も食べないといっていた。不思議だ