自分の情報は自分で管理

昔のお話・未来のお話

同じ様な食事をとり、同じ位の睡眠時間で、同じ様な運動をし、同じ嗜好を持つ。そこまでシンクロしていなくとも、自分と同じ様な生活を送っているヒトはこの世界のどこかにいるかもしれません。

ただし、同じ様な生活をしていても、病気になるヒトとならないヒトがいると言うのは簡単に想像がつくでしょう。それはだって体質がみんなそれぞれ違うのだからですね。

ゲノムワイド関連解析

自分の体質を知る事が病気の予防や早期発見、治療法の選択に繋がります。これを「個の医療」と呼びました。

体質と言うと漠然としていますが、この本ではそれを個人のゲノムDNAの違いと捉えてお話を進めてきました。

ガンに成り易い家系とか、高血圧に成り易い家系とか、糖尿病に成り易い家系と言うのが間違いなく存在しているのはみんなが肌で感じています。これらは確実に遺伝子の影響を受けており、親から子へと性質が伝えられるからですね。

では、病気に関わる遺伝子はどのように見つけるのでしょうか?

たった一つの遺伝子が原因で不幸にも病気になってしまう場合、これを遺伝病と言います。単一遺伝子疾患と言う難しい呼び名がありますが、この様な場合、連鎖不平衡と言う数学的な考え方で、ゲノム上の遺伝子の位置を特定する手法を用いるのでした。

名前はポジショナルクローニング法でした。

一方、糖尿病とか高血圧等と言うのは遺伝的な背景がある事は判っているのですが、決して一つの遺伝子の違いで決まるものでは有りません。幾つもの遺伝子の違い(ポリモルフィズムの事です)に加えて、食事や運動、生活環境が複雑に絡み合って発症に至ります。

この場合、遺伝子の場所を示す遺伝子マーカーとの連鎖が様々な場所で認められるので、解析が複雑です。現在では、高機能のコンピュータとアルゴリズムの発展により多因子疾患の解析もかなり進んできました。

加えて、病気のヒトとそうでないヒトのたくさんのゲノム試料を使ってフェノタイプ(表現型)1と遺伝子マーカーとの連鎖を探る大規模解析ができるようになった事も大きな理由です。

前項で紹介した日本人の遺伝子試料はこの様な解析のために集められました。すなわち、20万人と言う大規模な試料を用いて、55万箇所にのぼる精密な遺伝子マーカーSNPs2と表現型との連鎖を解析して多因子形質の遺伝的原因を解明する事がバイオバンクジャパンの目的であり、将来、日本の医療の進歩を支える基盤となる事を目指しました。

これは、ゲノムワイド関連分析(GWAS)3とか、ゲノムワイド連鎖解析4と言い、病気関連遺伝子探索の有力な手法です。

個の医療 続編

自分の遺伝的背景を知る事により、効果的な予防策をとって発症しないようにする事ができます。個の医療の意義は、まず予防する事。そうすれば余計な手間やお金はかかりません。

それでも、不幸にして発症してしまった場合はどうでしょうか。クスリによる治療の場合を考えて見ると、ここでも遺伝的背景を理解する事が重要となります。

薬効と副作用の出方に個体差の発生する仕組みには大きく分けて二つの種類が考えられます。

一つ目は、クスリの標的となる分子の感受性がヒトにより異なる事。例え同じ標的に作用したとしても、標的分子の形と感受性に違いがあれば薬効に差が出ます。

最近の分子標的薬において顕著な現象ですので、あらかじめ対象となる患者さんがどのようなタイプの標的を持つか調べた上で投薬する事になります。

二つ目は、クスリの吸収~分布~代謝~排泄の各段階に作用する分子がヒトにより異なる事。例えば、クスリの代謝酵素の働きが弱いヒトと強いヒトでは、血中濃度の上がり具合や血液中のクスリの残り具合に大きな差がつき、働きが弱いヒトでは同じ量のクスリを飲んだとしても副作用がたくさん出易い事になります。

ですので、個体差の発生する仕組み毎に、その影響度をあらかじめ予測し、
① 個人レベルでは、自分が効くタイプかどうか判る/副作用が出易いかどうか判る。
② 社会レベルでは、効かないヒトに投薬する無駄を省く/医薬品による健康被害を未然に防ぎ、効率的な医療資源の配分を可能にする
③ 製薬会社レベルでは、効きそうなヒトで治験ができる/安全性の理由によるドロップアウトを防ぐと言う事が出来るようにするのです。

さて、個の医療では普通のおクスリと違い、投薬の前にはそのおクスリが効くかどうか、副作用が出なさそうかどうかをあらかじめ調べる事が必須となります。

調べる対象としては、今のところ標的タンパク質のポリモルフィズムがどうなっているかとか、組織での発現量が多いか少ないかと言った事を調べる訳でして、これをバイオマーカーと言っています5

そして、これらバイオマーカーの状態を調べる検査薬の事を、治療薬と直結した検査薬と言う意味で、コンパニオンダイアグノスティクス(CoDx)と呼ぶようになりました。

新しい概念が生まれると名前がつく訳です。

製薬会社は、個の医療を推進するために、コンパニオンダイアグノスティクス6の開発も同時平行で考えながら開発しなければならない時代となりました。

次世代シークエンサー

現在のところ、個の医療の実用化が進んでいるのはガンの領域です。

医療はずいぶんと進歩しましたが、ガンの死亡率は依然として高く、循環器系と脳神経系の病気を抜いて死因の第1位を占めるようになりました。

ガン治療薬の有効性を確かめる臨床試験だって、投薬群において死亡するまでの期間が数ヶ月延長した事で評価されるようなレベルです。

患者毎に多様性を示すそれぞれのガンの特性に応じて効果を出せるかどうかの判定をコンパニオンダイアグノスティクスにより行い、投薬の判断を行うと言う道筋は、まずはガン治療薬の分野で先行して確立しました。

例えば、ハーセプチン(トラスツマブと言う乳ガンのおクスリ)は、HER2と言うタンパク質を表面に過剰に発現しているガンを持つヒトにだけ投与します。

転移性乳ガン患者の20%がこのタイプであり、HER2の抗体診断薬により効く患者だけを選択する事ができます。

個の医療を推し進めるには、このように目的とするバイオマーカーの性質を判定する診断薬が治療薬開発と平行して開発されなければならないので、メーカーの負担は重く、検査費用は高価です。

日本でもようやく診療報酬が認められつつありますが不十分ですので、検査薬ビジネスの成熟化がこれからの課題だと言われています7

一方で、コンパニオンダイアグノスティクスの大きな潮流として、遺伝子レベルのDNA配列検査が有ります。

それぞれの分子の設計図はゲノムの中にタンパク質の設計図情報として存在しています。配偶子同士が受精した時にこの設計図は確定し、一部の例外を除いてゲノムの配列は変わりません。

ですから、DNA配列解析装置で調べた結果は一回測れば一生ものです。そして、ゲノムDNAの遺伝子解析結果は、究極のコンパニオンダイアグノスティクスに成り得るのです。

クスリの効き方に個人差がある理由として、吸収~分布~代謝~排泄の各段階に作用する分子がヒトにより異なる事を書きました。

最初は、CYP等、一部の薬物代謝酵素のポリモルフィズムを調べる簡単な所から開始されるでしょう。でも遺伝子の配列の解析は年々飛躍的に低コストになり、解析を行うコンピュータの性能アップも留まるところを知りません。

遺伝子DNAの配列を解析する装置の事は、シーケンサーと言います8。今の所は実験装置ですが、いずれは、診断機器としてのシーケンサーを使って、個人の全ゲノムDNA配列をあらかじめ明らかにしておこうと言う時代が必ずやってきます。

20年前にお父さんが遺伝病の遺伝子解析をする研究所に勤めていた頃、当時の最先端のシーケンサーを2台購入して配列決定していました。

一回の測定で36の検体について8時間でおよそ400bpを測定できましたので、2台を24時間体制で1週間動かせばおよそ60万bpの解析が可能だったのです。2年後にはそれでも足りなくなってもう1台買い足した記憶があります。

さて、それから20年以上経過した現在では、DNAシークエンサーの測定原理から技術革新があり、1台で1週間に22億bp測定できるようなモンスターマシンが開発されました。ヒトのゲノムの全配列長が30億bp。2倍体なので、60億bp読むのに、およそ3週間。

お父さんの時代から考えれば読み取り速度は約7000倍、読み取りコストは1万分の1。かつて、ヒトの全ゲノム配列を明らかにしようとしたゲノムプロジェクトでは、30億ドルと6年の歳月をかけて一人のゲノムを全世界で解析した事を思えば隔世の感があります。

すなわち、自分のゲノム配列が知りたい!と思った時に、お金さえあればそこそこの時間でそれを手に入れられる時代がやってきたのです。

個人ゲノム管理の時代

病気の予防のために、あるいは治療法の選択のため、これから先はゲノム情報を用いるように成って行きます。ゲノム情報なんてたかだか30億文字。

保険証のICチップの中に自分の全ゲノム配列情報が埋め込まれる時代が来たとしても何ら不思議はありません。病気を治すという目的を考えれば、むしろそうしておいて全国どこの病院にいってもゲノム情報を根拠とした個の医療を受けられるようになるのはある種理想的です。

でも、気をつけなければならないのは、これが究極の個人情報だということです。

極端な話、就職試験などでゲノム情報の提出を求められるかもしれません。

航空会社のパイロットに応募するには提出が必須となり、てんかんの発作が出る確率が30%なんて解析の結果が出たら就職を拒否されるでしょう。公共の福祉のためには必要とか何とか理屈をつけられてこんな事がまかり通ったら結構怖い社会。

さらに、この情報を最も欲しがるのは保険会社。生命保険と言うのは、定められた期限内に被保険者が死ぬかどうかを賭けるギャンブルです。

最も統計学による解析を重要視する分野であり、被保険者のゲノム情報を手に入れて、40歳までに糖尿病を発症する確率が80%で、かつ60歳でガンになり死亡する確率が90%等と勝手に解析されて、保険の加入に差をつけられるかもしれません。

こういうのを遺伝子差別と言います。

事実、米国では遺伝子情報の読み取りが現実味を帯びてきた時点で真面目に遺伝子差別の議論が始まり、2009年11月21日より遺伝情報差別禁止法(GINA)9が施行されています。

良い事も悪い事も全てひっくるめて理解した上で、ゲノム情報の管理と利用をする時代が、もうすぐそこまで来ています。好むと好まざるとに関わらず、そうなります。

知らなければ、いざと言う時に自分の身を守る事が出来ません。自分のゲノム情報は自分の体の事ですから、自分でどの様に使うか決定する事が求められるのです。

その時に、良く判りませんと言うのも悔しい話。是非、自分のゲノム情報の持つ意味と、その情報を使ってできる事、できない事、使うべき所、使わない方が良い所に目を配って下さい。

見ていてごらん、これから先の10年で医療は大きく変わるから。


お父さん解説

  1. 表現型:Phenotype
  2. 一塩基多型:SNPs
  3. ゲノムワイド関連分析:genome-wide association study:GWAS
  4. ゲノムワイド連鎖解析:genome-wide linkage analysis
  5. バイオマーカー:biomarker
  6. コンパニオンダイアグノスティクス:companion diagnostics:CoDx
  7. 特に製薬会社では、そうする事によって、安全性を確保した上で、治験サイズ縮小による費用削減とクリアな有効性による治験期間の短縮を実現できるようになる
  8. シーケンサー:sequencer
  9. 遺伝情報差別禁止法:The Genetic Information Nondiscrimination Act of 2008:GINA
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